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犬、頭だけ出して生き埋め―この事件の真相

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101010-00000031-mai-soci

日本には昔から蟲術等の流れを汲む、動物霊を使役する呪詛がある。
四国にもイヌガミというのがあるが、その呪術の方法が、 まさに犬を頭だけ残しあとは生き埋めにし、餓死寸前のところで目の前にえさを置く。 そして、必死で頭だけでそのえさにかぶりつこうとする犬の首を切り落とす。 その瞬間、犬は首だけでそのえさにかぶりついて死ぬそうだ。
それをミイラにして祀るというものだ。

「食べ物の恨みは怖ろしい」と昔から言うとおり、その呪いの力は強烈で、 呪いを行ったものはその動物霊をうまく利用することも出来るが、下手をすると自分が食われる。
さらに、その家系全体がその血筋、つまり“イヌガミスジ”となる。
また、そのスジは、婚姻などによって広がっていくため「イヌガミスジ」の家とは結婚するな、ということになる。

そうなると、彼らはそのスジどおしの結婚以外が難しくなるため、近親相姦等が多くなり、そこに被差別部落のような集落が出来る霊も少なくなかったそうだ。

まあ、社会学的に見て、その動物霊憑きの家系というのは恐らく人間どおしの妬み、共同意識等から生まれた一種の社会的潤滑油としての働きがあると、社会学者吉田禎吾氏は述べている。


まあ、つまり、今回の事件はこの「イヌガミ」の呪術を実行しようとしたのではないかと思うのである。
だって、いたずらっつっても子供が大きさ1メートルの犬を、いとも簡単にこんなことできるかねえ??

中学生くらいなら出来るか。
まあとにかく一人では出来ないから、集団でやったのだと思う。



追記

この前実家に帰ったとき、意外と近くにそんな集落?があると知ったよ!
まあ社会的にタブーにされてる地帯なんだろうね。
まさに車も入りにくい山奥・・・。

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“霊感”を考える

幽霊って・・・
存在するのだろうか?

こんな質問を、僕は今まで何度聞いてきたかわからない。
確実にいえることは、僕は今までそれを視覚的に認識したことは無いということだけ。
でも、もしかすると、それらは日々、光もしくは闇にまぎれて、僕の目の前を当たり前のように通り過ぎているのかもしれない。

霊感があるという多くの人が、ほぼ共通して言うことがある。
「昔はもっとはっきり見えた。」だとか「見る頻度が高かった。」というもの。
霊感は日々少しずつ失われていくものなのだろうか。
確かに、トトロも子供にしか見えないし。

あるいは、子育てを経験した人から、このような話もよく聞く。
「まだ子供が赤ちゃんのころ、誰もいない方向を向いて、さも誰かと遊んでるような身振りをしていた。」とか、「3歳くらいのころ、あそこにおじいちゃんがいる」と天井のほうを指差したりして、両親をゾッとさせたり。
我々が小さかったころ、もしかするとそういう経験はあったかもしれないと考えさせられる。
何が起きても不思議に思わないくらい小さいころには、たとえ天井の隅のおじいちゃんと遊んでいても、それをそのまま現実として受け止めるだろう。

もしかすると、霊感というものはそういう類のものなのではないだろうか。
我々が日々生活し、成長する上で「科学的思考」というフィルターが視覚に覆いかぶさり、一種の防衛機制として働いているのではないか。
もしくは、人間がより合理的に暮らすために、そうした“純に見る”という感覚が退化するのではないか。
我々が小さくて、この世のすべてが真新しかったころ、道端に落ちている石ころ一つにどれだけ目を引き付けられたか。
それが今では、そこにあることすら気付かない。
“霊感”とはそういった類のものかもしれない。

ところで、こういう画家がいる。
ヨハン・ハウザー(1926-1996)は、17歳で精神病院に入れられた。
一般社会生活に適応できない知的障害者だとみなされていた彼は、絵画において驚くべき才能を発揮する。
黄色いドレスの女
『黄色いドレスの女』

霊柩車
『霊柩車』

“アール・ブリュット(生の芸術)”と呼ばれる芸術家の一人、ハウザーの作品は上のような、我々から見ると非現実きわまりの無いものである。
でも、少なくとも、彼にとってはこれは現実以外の何ものでもなかろう。
霊柩車の上部に、かれは人を見たのである。
それは、科学という集団幻想のフィルターを通さない、純粋に物を見て得られた景観なのである。

芸術家に求められる資質の一つとして“霊感”を挙げる人も少なくない。
それは単に「霊を見る」ということでなく、その物体、あるいは情景をいかに直視するかということで、それは感情よりむしろ、あらゆる感覚を研ぎ澄ませた中で見られるものなのかもしれない。


さて、霊を見る方法として知られているものの一つに、
「天井の一点をずっと見つめ続ける」というものがある。
やはり、ある一点を“見る”というそれ以外の目的を持たず純な行為をすることによって、フィルター作用を無にする。純粋に見ることが出来ると、そういうことなのだろうか。
泉鏡花の名作『草迷宮』に登場する化け物の『秋谷悪左衛門』は、物語の中で主人公にこう告げる。「(我々化け物は)その人間の瞬く間を世界とする―」と。つまり、人間の瞬きする間に存在するのだと。
瞬きに住むとは、凝視とは対照的に、意識せず見る世界に存在すると言い換えられなくも無い。
意識せず見るということは、もちろん科学という概念のもと、日々見流す風景だろう。
それを、瞬きせずに“凝視する”ことによって行き場を失ったそれらを、我々は眼にすることが出来るのだろうか。
我々に課せられた科学という集団神話は、実に厄介なものだと痛感するが、それはやっぱり自衛作用、見えちゃったら怖いんだろうな・・・。
よかった、フィルターがあって。



でも、昨日見てしまった。



箒にまたがる魔法使いを・・・。
魔法使い


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ものすごく怖いポスター

怖いポスター

大月駅に貼ってあって、いつも気になるポスター。

貼ってあるのが駅でよかった。
暗い通りや、アパートの掲示板とかに貼られてたらめっちゃ怖くて夜とか震えちゃうムンク


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都留市の心霊スポット

山梨県都留市には“心霊スポット”と呼ばれるところがやたら多いように思います。
僕自身、都留市に来るまでは、「都留市自体、霊を都に留めるために作られた町なので怖い」と聞いていたので、そこそこの覚悟がいりました。
ここでは、そんな都留市の心霊スポットを紹介します。
行ったことあるものにはがーん←ムンクマークを!
おすすめ度評価を5つ星でつけました。
評価基準は、心霊スポットとして行って面白いかどうか、サイトなどの管理人のおすすめ度など。


1.佐伯橋・田原神社がーん
・都留では言わずと知れたスポット。芭蕉が句に読んだといわれる田原の滝が拝める。
・自殺の名所としても有名。
・脇の田原神社は、人形を置いて家に帰ると、家に捨てたはずの人形がすでに返っているという噂が。
・神社の境内には、「ここに人形を置いていかないでください」という墨の張り紙がある。
・“七人ミサキ”という、白装束を着た7人組の幽霊が徘徊している。見た人は気が狂って橋から身を投げる。放心状態になるとも聞く。
・霊感のある人がその橋を見ると、無数の手が見える。
おすすめ度★★★☆☆

2.ひまわり幼稚園近辺がーん
・昔処刑場があった一体。
・あぐらをかいた上体で宙に浮くおばあさんや、首を抱えた首の無い武者を見たとか、目撃談が後を絶たない。
おすすめ度★★☆☆☆

3.旧雛鶴トンネル
・都留から秋山にぬけるネルトンで、都留側は獣道となっているという噂。
・今後探してみる。
おすすめ度★★★★★

4.文大通りとおかじまの通りの交差点がーん
・昔原付事故があり、文大生の女性が死んだ。
・原付を見たとか、血だらけの女性が立っているとか多くの目撃談が相次ぎ、供養を行った。それ以後目撃談は無い。
おすすめ度★☆☆☆☆

5.天神トンネルがーん
・宝のほうの、整備されていない道路の先にある明らかに異様なトンネル。
・入り口が3つあり、一番左は歩行用。
・抜けた先は行き止まり。
・天神だけに、行きはよいよい帰りは怖い。
おすすめ度★★★★★

6.都の杜うぐいすホールがーん
・小ホールの建設時、2人の死人が出た。
・幽霊の目撃談があるが、詳しくはわからない。
おすすめ度★☆☆☆☆

7.旧道坂トンネル
・都留と道志村をつなぐ新道坂トンネルの脇の旧道にある。
・トンネルはあるが、コンクリートで入り口を封鎖されている。
・「ヨツンバ」というキーワードの何かが関係しているが、よくわからない。
・また今度行ってみます。
おすすめ度★★★★☆

9.城山温泉近くの道祖神集合場所がーん
・心霊写真が撮れた。
おすすめ度★★★☆☆

10.おいしがね
・十日市場の田畑に不自然にある大きな岩。
・富士山の噴火で飛んできた岩に、2人の男女が押しつぶされた。
・心霊スポットというよりは伝承と言ったところ。
おすすめ度★★★☆☆

11.おなん淵
・上に同じく伝承。
・おなんという女性が身を投げた。
・「おなん、おなん」というと、おわんが浮かんでくる。『隠れ里』伝承に通ずるものがありそう。
おすすめ度★★☆☆☆

12.都留トンネルがーん
・処刑場が近くにあり、首に関する事故が相次いだ。
おすすめ度★☆☆☆☆

13.白糸の滝がーん
・都留市ではなく、西桂かそこらへん。
・薄暗く、非常に不気味。
・その滝の上にあるつつじヶ原?はさらに不気味。黄泉の国、もしくは異界に足を踏み入れたような感覚になる。
・地蔵がやたら多い。
おすすめ度★★★★★

14.宝から笹子に抜ける道がーん
・心霊スポットとしては大変有名。
・白い服を着た女性の目撃談が多い。
おすすめ度★★☆☆☆

16.十日市場のどこかの一軒家の貸家
・ジョニーという霊が出る。
おすすめ度★☆☆☆☆

17.文大の運動場
・夜中に白いもやのようなものが歩いている。
・何か走っている。
おすすめ度★☆☆☆☆

18.つるカントリーのとこの大幡~初狩線
・白い着物を着た女の人が走っている。
おすすめ度★★☆☆☆

19.朝日キャンプ場
・都留市盛里にあるキャンプ場。
・数年前の殺人事件で3人の死体が埋められていた現場。
おすすめ度★★★☆☆


詳しく知りたい人は知ってる情報なら教えますよ~。


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春の呪い~逆接めく恐怖概念~

僕にとって“恐怖”という概念は子供のころからもっとも興味をそそられる感情の一つだった。
しかし僕は今、それについて脳科学の見地から述べる知識は残念ながら持ち合わせていない。
というか、その方向から述べることは僕の興味をそそらない。
それには、まず調べる手段がないこと、
そして、飛躍した意見を持つことに、脳科学者で無い限り限界地点が必ず来るからである。
要するに、T・S・エリオットの有名なアナロジーの、“触媒反応”としての発想術が機能しないからである。
すなわち、ある事象と別のある事象を化学反応させて論理を組み立てるところの発想のセンスを最大限使ったところで、所詮脳科学の研究成果の範疇に納まりきってしまうからである。
だから僕は、それらを文化人類学、社会学的に語ることに専念する。
ちなみに『お化け屋敷で科学する』はまさに前者の視点で語られていたが、別段大したものではなく、興味は沸かなかった。


前置きが長くなってしまった。
『春の呪い』というのは、小学生のとき、僕の友人が見た夢のタイトルである。
それを友人から聞き、結構印象に残っていて、黒澤明の映画『夢』を見るとき、いつもそれが思い出される。
その夢は、その友人が『少年自然の家』という宿泊施設(愛媛県西条市では、5年生のときの恒例の行事で、各学校でそこに宿泊させられる。僕は嫌すぎて泣いた)で見たといっていた。
こんな内容だった。

~桜が満開の桜並木を彼は歩いていた。でも、夢ではよくあるようにその姿は客観視していたという。
で、しばらくすると、満開の桜が突如枯れて散り始める。散って隠れていた枝の部分にはそれぞれの樹に幾体も首を縄でくくった骸骨がぶら下がっていた。
そして、それらの骸骨が降りてきて、その歩いていた彼(もうそのときには完全に友人自身ではなくなっている)をぐちゃぐちゃに食べはじめた。そのBGMとして、サーカスでピエロがおどけるときのような、もしくはメリーゴーランドが回るときのような、聞き覚えのあるあの音楽か、もしくはヴィヴァルディの「春」のような楽しげな楽観的な曲が流れた。
で、彼が完全に骨になるまで食われたところで、その背景のまま“春の呪い”というタイトルが出た。
でも、その“春の呪い”という字も、なにかハングルのような、よくわからない文字だった。~

以上がその友人が見た夢。
非常に“夢”っぽい狂気に満ちた怖ろしい夢だ。
我々に戦慄を覚えさせる要素はたくさん含まれているように思う。
その要素はざっとこうだ。
①幽霊、妖怪、闇など、概念化できないものに対する恐怖。
②命を脅かされる危険からくる死の恐怖。
③カニバリズムなどの異端の要素による集団幻想の崩壊の恐怖。
④視点の転回による自我の解体の強迫観念。
⑤嘲笑的な、逆接めく恐怖(後に詳しく説明する)。

①の“概念化”とは、宮沢賢治における“がいねん化”のことで、詳しくは過去の記事シューマンが怖いを参照していただきたい。
③は例えば、集団におけるタブーが犯されたときにおこる危機感のようなもの。
④は、客観視された自我の身体が崩壊していく中で、自我の居所を失うところに起こる恐怖。自我の解体、もしくは分裂の恐怖。

さて、僕が今回特に述べたいと思うのは他でもない。⑤だ。
その“恐怖のパラドックス”は、僕の目指す芸術の根本となる論理となる(ごめんなさい偉そうなことを書いて)。
つまり、ここからが本当の本編。
テストにでるところ。


『春の呪い』の夢を思い出すにあたって、僕は『檸檬』で有名な、かの梶井基次郎の『桜の樹の下には』を思い出さずにはいられない。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている。」
から始まるこの短編小説。
「この爛漫(らんまん)と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。」
この文章から、各桜の樹ごとに死体が埋まっていると考えているらしいことがわかる。
その文章に続き、
「馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛(ふらん)して蛆(うじ)が湧き、堪(たま)らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪(どんらん)な蛸(たこ)のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を吸っている。」
とある。
この小説の主人公は、桜のその純粋すぎる美しさが信じられない、受け入れられない、直視できない、それこそ“概念化”しきれないのであった。
そして、主人公は、その信じられない美しさを“概念化”するために、中和剤としてそういう思い込みをした。
子供店長に言わせて一連のことをわかりやすく説明すると、
僕の友人のまりどんが「キムタクはかっこよすぎて好きになれない、見てて恥ずかしくなる」と言ったようなものだろうか?よくわからないけど。で、直視するために、「ああ、キムタクは整形したんだ、もともとゴリラみたいな顔だったんだな。」とすることで自分を納得させるといった具合なのでしょうか。わからないけど。

しかし、そこにこの小説が戦慄を覚えさせる因子があるのは理解していただけると思う。
同小説で、水溜りに、石油を流したような美しい虹彩を主人公は目にするが、近くに寄って見るとそれは、産卵を終えて水溜りに浮かぶたくさんのウスバカゲロウの死骸だったということ。
もしくは、トーマス・マンの『欺かれた女』の中のワンシーン、
麝香香水の匂いに惹き付けられた2人の夫人の前に現れた、その匂いの元。すなわち、道端のたくさんの糞尿、大量の腐敗菌を沸かせていて、そのそばには腐敗した獣の死骸なども落ちているところのそれである。それらが遠くから匂うと、薄められて麝香の香水の匂いがしたのだった。ということ。

つまり、純粋な美しさの裏にある醜悪なものの存在である。
その醜悪な“正体”は、その見かけが美しければ美しいほど、我々に与える戦慄は大きいのだった。

恐怖を生み出す要素として、全く対極にあるものを援用すること。
それこそが⑤番目の最大の恐怖の巧みな演出要素である。
“死の舞踏”での死との馴れ合い、スティーブンキングの『イット』のピエロ、『ダイ・ハード』の、屈折した第九の歓喜の歌。


『春の呪い』に話を戻そう。
『春の呪い』におけるその⑤の要素とは、
梶井のときのように“満開の桜”はもちろん、おどけたような骸骨、そしてメリーゴーランドの曲、もしくはヴィヴァルディの『春』である。
その屈折した楽観要素、それがかえって恐怖を高める素材と転じている。
僕はそれを、『梶井パラドックス』と呼ぼうか。
それとも、梶井の命日を『檸檬忌』と呼ぶから、『檸檬パラドックス』とでもしようか。
いいや、いっそ『春の呪い』をみた友人はよしひろというから『よしひろパラドックス』としようか。
いいや、『桜のパラドックス』いや、『ゴリラパラドックス』いや、『ボリビアンボリボックス』、いや、『ブリリアントポリピックス』、いや、『ベイクドチーズケイキックス』・・・・

なんでもいいや、じゃあ『ゲスモンケサス』と呼ぼう。
なにそれ?


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プロフィール

はじめ様

Author:はじめ様
血液型:O型
趣味:音楽鑑賞、読書、ツーリング、心霊スポットめぐり
好きな作曲家:ベートーヴェン、マーラーなど


一応作曲家です。
まだまだ先は長いですね。まるで樹海を彷徨っているようです。
ようこそ、僕の森へ。

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