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童話作家 大海赫の世界

dokokanokunihe

ここ最近、大海 赫(おおうみ あかし)さんの童話にはまっている。
童話でありながら不気味でシュール、時には辛らつな内容だ。

挿絵も大海さん自身が描いてるものが多い。

ooumiakasi

この不気味な木版画の挿絵。「アオスジウソチョウ」というお話の挿絵。

僕が特に思わずゾッとしたのは、童話「ママが6人!?」の中の6人のママが中世の教会によく見られる回転体の重像文様のように円をなして描かれているものだった。


「ドコカの国にようこそ!」は、主人公のフトシ君が“ドコカの国”への鍵を手にするために、サラバさんが課す10のさまざまな過酷で不気味な試練をこなしていくもの。
最後の結末も、決してグッドエンドとはいえない。


「ランドセルは魔女」は、挿絵は大海さんではない。「おしいれの冒険」などの挿絵を描いたタケカワコウさんだ。
割とあっさりとした挿絵からは想像できないほど不気味な物語だ。
主人公は“ランドセル”を小学生を卒業した従姉妹からもらうのだが、その後彼女は気が狂って湖で入水自殺してしまうという、童話とは思えないような内容。
ランドセルを貰い受けたその後、主人公はその“魔女”のランドセルのお陰で、成績がぐんぐん伸びるのだが・・・。

「ビビを見た!」は、生まれつき目の見えない盲目の子供が主人公。しかし、ある日どこからか声がして、7時間だけ目を開かせてくれるという。その言葉通り目が見えるようになるのだが、同時にこれまで目が見えていた人々の目が見えなくなってしまう。
そんな中「敵が来る!」と、町中は大騒ぎ。目が見えない人々は、普段から目が見えていない人たちの助けを借りつつ、女、子供は皆非難するため電車へ。男たちは残って街を守ることになった。
目の見える主人公は、電車内で自分の他に目が見えるらしい一人の少女に出会う。しかし、その少女は何かにおびえている。「ワカオが来る・・・。」“ワカオ”というのが皆のいう“敵”の正体なのだろうか?



まだまだ、有名な作品がたくさんあるこの大海さんの世界。
多くの子供たちにトラウマを残したようです。
みなさんも是非、図書館で借りて読んでみて下さい。

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ワンピース 大将のモデル

大将

ルフィーたちの最大の敵、海軍の最高戦力3大将は、どれも大物俳優がモデルと思われます。


松田優作
青雉(松田優作)


田中邦衛
黄猿(田中邦衛)


菅原文太
赤犬(菅原文太)

もしくは、

麻生太郎
赤犬(麻生太郎)

こっちも有力です。

でも、菅原説が最も有力です。
しゃべり方、刺青などから。

以上でした。


spoon.2月号でアリス特集!

皆さんご存知かご存知でないか知りませんが、 僕は不思議の国のアリスが大好きなのです。

ディズニーのももちろん好きで、DVDも持ってるんですが、 むしろ、僕が好きなのは原作の方で、そしてそれをあらゆる人が映画化、絵本化、もしくはそれをモチーフに物語を書いたり云々と言ったものに魅力を感じるのです。

つまり、アリスとアリス周辺文化といったところでしょうか。

アリスといえば、いろんな人が映画化しています。
特異なものを挙げれば、ヤン・シュバンクマイエルのアリスは、非常にシュールで、不気味なものです。

そんな中、ついに、ティム・バートンがアリスに手をつけるわけです。
アリス
ティム・バートンといえば「ビッグフィッシュ」「チャーリーとチョコレート工場」なんかが、まさにアリスを思わせる作品なだけに、いつアリスをやっても不思議でないとは思っていました。
まあ、適任中の適任でしょう。

しかし、正直バートンのアリスは、実は最初ほど期待していません。
というのは、ジョニーデップがまあまた出るわけですが、
彼が“いかれ帽子屋”役だそうです。
まあ、もちろんそれ自体はいいのですが、僕が危惧しているのは、
原作ではほんの1パートでしかないお茶会のキャラクターである帽子屋が、ものすごく異様なほど存在感をましてしまうのではないかということです。
バートン×ジョニーのコンビを際立たせるあまりに。
どうも僕が危惧しているいわば観衆に媚びた演出が、現実のものとなりそうです。


さて、「spoon.」の2月号で、アリスが特集されています。
spoon.2
もちろん、バートンの映画の情報も載っています。
今、アリスがきてるんですね、さすがティムバートン!!

spoon.は僕は割りと好きな雑誌です。
いつも立ち読みします。
でも実際持ってる巻は、この2月号と、別冊「森ガール」特集のものだけです。
「森ガール」特集の巻には、marini*monteanyも紹介されているわけです。

よく考えると、marini*monteanyにもアリスをモチーフにしたイラストがあったりしますし、 谷山浩子もシュバンクマイエルもティムバートンも、もともと僕がすきなアーティストは、 アリスをモチーフにした作品を手がけているなあと思うわけです。
というか、周りを見渡してみても、多くのアーティストがその影響を受けています。
ルイス・キャロルとは本当にすごいなあと思うわけです。

ちなみに、ルイスキャロルは、職業は詩人だったわけではありません。
数学者です。

何せ、アリスの次に出版した本が『行列式初歩』という代数研究の本で、そのほかにも『記号論理学』など、数学関係の出版物も多いわけです。
その影響もあってか、数学とか化学とか記号論とかいったものの現代の出版物に“アリス”とつくものも少なくないのです。
やはり数学というのは、ある種机上の空論を述べる学問であるとも考えられるわけで、それを本業とする人間がアリスのような空想きわまりの無い矛盾に満ちた世界を描くことは、必ずしも矛盾していないと思うわけです。
その点はシュタイナーも同じだと思います。

そもそも、芸術というもの自体が、理数系なのです。
音楽はピタゴラスによって理論付けされ、いわば数式を図式化したような楽譜という伝達方法で残されるわけです。
我々の耳にするほとんどの音楽に適用されている和声学も、音程の度数を数学のように論理的に扱います。

絵は、そのまま図ともいえるでしょうし、かつてダヴィンチも科学に精通していたわけです。
遠近法などはまさに数学、物理の世界ともいえるでしょう。 そして、だまし絵の技法なども数学と共に発展していったのでしょう。

詩、文学はどうか。
やはりそこにも内容以外で理論付けすれば、心地よく響く語呂や言い回しもあったりして、数学的です。
まあ、もちろんすべてにいえることではないとは思いますが、 まさに詩なんていうのは現代数学の世界に大きく関わっていると思うわけです。

芸術というものが霊感だとすれば、数学もまた、それにきわめて近いものだといえます。
なぜなら、数学も霊的自然科学も、目に見えないものを対象とし、部分的事象を見ずして全体を知ろうとする学問だからです。

以上です。

トミノの地獄

音読すると凶事が起こると有名な詩がある。

『トミノの地獄』という詩。


姉は血を吐く、妹(いもと)は火吐く、
可愛いトミノは宝玉(たま)を吐く。
ひとり地獄に落ちゆくトミノ、
地獄くらやみ花も無き。
鞭(むち)で叩くはトミノの姉か、
鞭の朱総(しゅぶさ)が気にかかる。
叩けや叩きやれ叩かずとても、
無間(むげん)地獄はひとつみち。
暗い地獄へ案内(あない)をたのむ、
金の羊に、鶯に。
皮の嚢(ふくろ)にやいくらほど入れよ、
無間地獄の旅支度。
春が来て候(そろ)林に谿(たに)に、
暗い地獄谷七曲り。
籠にや鶯、車にや羊、
可愛いトミノの眼にや涙。
啼けよ、鶯、林の雨に
妹恋しと声かぎり。
啼けば反響(こだま)が地獄にひびき、
狐牡丹の花がさく。
地獄七山七谿めぐる、
可愛いトミノのひとり旅。
地獄ござらばもて来てたもれ、
針の御山(おやま)の留針(とめばり)を。
赤い留針だてにはささぬ、
可愛いトミノのめじるしに。


確かにドロドロした感じもありつつ、どこか透明感のある、美しい詩だと僕は思う。
そして、水墨画とか、日本画を思わせる。寒々しくも熱いロマンも感じさせる。
本当に綺麗な詩だと思う。

この詩を書いたのは、かの有名な“西條八十(さいじょうやそ)”。
その詩集『砂金』に含まれる詩の一つだ。

八十といえば、まずやはり童謡『かなりあ』を思い浮かべるのではないだろうか。
『かなりあ』もまた、寒々しい透明感を感じさせられる、そして少し不気味さもある詩だと思う。
全文を載せるのは面倒なので割愛したい。


唄を忘れた金糸雀(かなりあ)は、
後ろの山に棄てましょか
いえ、いえ、それはなりませぬ・・・


と始まり、どういう棄て方をするか思考を巡らせることで前半を終え、
後半は、


唄を忘れた金糸雀(かなりあ)は、
象牙の船に、銀の櫂
月夜の海に浮かべれば
忘れた唄をおもいだす


なんと風流で美しい光景か!!
なお、童謡としてのメロディーでは、4分の2拍子の前半から一転して、後半では4分の3拍子になる。
日本人の詩というのは、また童謡というのは、なんて美しいのか、
そして、なぜこんなにも郷愁を湧かせるのか。

ちなみに、この西條八十は、アルチュール・ランボーの研究書も書いている。

宮沢賢治のフォークロア―童話集『注文の多い料理店』を中心に(前編)

宮沢賢治の生前に出版されたのは、
『イーハトヴ童話集 注文の多い料理店』と、詩集『春と修羅』の2巻だけである。
今回は、その『注文の多い料理店』を、紹介の意味をこめて取り上げてみたい。

この童話集は、9編の童話と序からなるもので、
その話にはそれぞれ番号がついており、

1.どんぐりと山猫
2.狼森と笊森、盗森
3.注文の多い料理店
4.烏の北斗七星
5.水仙月の四日
6.山男の四月
7.かしわばやしの夜
8.月夜のでんしんばしら
9.鹿踊りのはじまり
となっている。
“イーハトヴ”とは、エスペラント語で“岩手”を意味する。
つまり“岩手童話”というのを、ちょっとかっこよくしてみたのだ。
賢治はこの童話集を堂々と“イーハトヴ童話集”とし、各童話の内容も、岩手の地名などを多く使ったり、地名や開墾の起源を描くものも多い。童話集の広告にも、賢治は“ドリームランドとしての日本国岩手県”を非常に強調している。

しかし、これは一件非合理的なことに見えないだろうか?
全国に出版され売り出され、話題になろうとすれば、当然オーラルな舞台設定を目指すだろう。
なぜ賢治は以上の“地元アピール”を堂々と武器のように掲げたのか。

岩手童話といえば、先に出版され成功した柳田国男の『遠野物語』を思い起こすだろう。
その成功は“日本国岩手県”のブランド力を大きく上げた。それだけでなく、それは“民俗学”を提起すると共に、地域文化、局所的文化に大きくスポットライトを当てたのであった。
それは賢治に“イーハトヴ童話”を出版する後押しになったかどうかはもちろん断定できないし、賢治が『遠野物語』に目を通していたかどうかは不明だ。しかし、その存在を知らない筈は無い。
『遠野物語』の話し手であり『聴耳草子』の編者、佐々木喜善と親交があったからだ。

また、民俗研究者で遠野物語研究の主幹である石井正己は、その『注文の多い料理店』と『遠野物語』の両者の類似を指摘する(「『遠野物語』を読み解く」2009平凡社)。
各話に番号がついている点、上に書いたように地名の起源や地勢、自然と神話と人の営みに関する話がある点(狼の森・・・)、その登場人物と特色(山男が餅を欲しがったり、狼が火の回りを回ったり、子供が神隠しにあったり)、そして、両方とも“鹿踊り”の項で終わっている点だ。
また、その両方の“序”の「わたくしは(自然や自身の心象風景から得たものを)そのとおりかいたまでです」と、「自分も又一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり」という2つの文章の類似も指摘しているが、それらに通底する客観性に関してだろう。


以上のようなことを見てみると、確かに遠野物語の影響を少なからず受けていることは察する。
しかし、それ以上に、岩手という地に根付いたフォークロアの上に2つは成り立ち、そこで各々の役割を全うした全く別個のものであると考えられる。
恐らく、遠野物語の成功が無くても、賢治の世界観はこの岩手の中に育ったのだろうし、やはり“ドリームランド”であるとすれば、親元を離れたがって一時上京した賢治であったとしても、場面設定は岩手以外にありえない。
夢に映る深層心理の舞台は、心象スケッチは、専ら岩手であったろう。必然的なものだ。
その中で、遠野物語は、賢治を育てた民間伝承を純粋に聴取し、賢治はそれとは直接関係無く、それに育てられた自身の“ドリームランド”を純粋にスケッチしたというだけのこと。
つまり、『遠野物語』が岩手県遠野の伝承で、『注文の多い料理店』は賢治のコスモロジーにおけるフォークロアそのものであった。
その“序”に書かれた“すきとおったほんとうのたべもの”とはそのことであり、単なる創作童話ではないことを強調している。それが我々の世界観に“たべもの”として入ってきて、そこに我々の内的民俗学が広がる。

なんか偉そうに書いたが、単に序に書いてあることをそのまま紹介したような文章になってしまったが、
要するに、賢治の行ったことは、童話の創作ではなく、どちらかといえば民間伝承を聴取した民俗学者の姿勢に近いのではないかということを僕は主張してみたかったのだ。

その“ほんとうの”という言葉について、新潮文庫の宮沢賢治集の解説ではおなじみの天沢退二郎氏は「見かけ以上に賢治にとって重要な言葉」と指摘し、その法華信仰との関わりを指摘しているが、これは『銀河鉄道の夜』などにも出てくる「ほんとうのさいわい」という言葉などからも想像がつく。
「ほんとうのさいわい」つまりは、十界論における“天上界”ではなく“仏界”に達した状態、つまりは即身成仏を遂げた状態を示すことは、僕は先に卒論で言及した。
「ほんとうのたべもの」とは、その場の欲求を満たす一時的な幸福ではなく“仏界”にあたるような、真の幸福への鍵となるものなのだろう。
社会学者、見田宗介氏が『宮沢賢治―存在の祭りの中へ』で、『銀河鉄道の夜』での一部分、鍵を持った天上の燈台守がいつのまにか林檎をもっていることを指摘したが、
恐らく賢治にとって、その「ほんとうのさいわい」への“鍵”=「ほんとうのたべもの」のイメージは林檎だったのであろう。
そして、見田は“林檎”を、賢治の(無意識的に)持たせた空間処理の一つのシンボルだと解いている。
空間処理(デペイズマン)といえば、シュルレアリスムをすぐに想起させるが、面白いことに、天沢は、シュルレアリスムの先導者アンドレ・ブルトン編の「黒いユーモア集」の一部翻訳も手がけているし、水彩画を趣味とした賢治の絵の中には、シュルレアリスムを思わせる『手の幽霊』と題された作品もある。
かといって、私が日本版『黒いユーモア集』を集めるとすれば、賢治はそれに含まないだろう。
ブルトンがその序「羅針盤」に書いてあるとおり、「ユーモア」はシュルモア(超自我)の上に成り立つもので、賢治の世界はあくまでエスの領域を楽しむものだと感じるから。
しかし、『黒いユーモア』にそれを含まなくとも、ブルトンや多くのシュルレアリストが注目したプリミティブアートやアウトサイダーアートと共通した世界観があることは間違いない。
そして、まさに“夢”に着目したところを見ても、それはシュルレアリストと共通している。
それをまさに純粋に成し遂げた賢治の姿、そしてその魅力は、この生前出版された2冊だけでも十分に見出すことが出来る。


次回機会があれば、各話の内容にさらに踏み込んで、以上のようなことを言及したい。

プロフィール

はじめ様

Author:はじめ様
血液型:O型
趣味:音楽鑑賞、読書、ツーリング、心霊スポットめぐり
好きな作曲家:ベートーヴェン、マーラーなど


一応作曲家です。
まだまだ先は長いですね。まるで樹海を彷徨っているようです。
ようこそ、僕の森へ。

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