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音楽の“黒いユーモア”

アンドレ・ブルトンは、歴史的、リニア的拘束を打破し『黒いユーモア選集』というアンソロジーを綴った。
時代を超えて“黒いユーモア”のテーマのもと、あらゆる欧米文学を集め、それぞれの文学者に関して、ブルトンの考察を書き、その上でいくつかの作品を紹介するものであった。

全体の序文となる『避雷針』と題された部分に、その彼の提唱する“黒いユーモア”の定義を説明してあるが、それに関しては、“黒い”という部分は客観的ユーモアそのものに関して「黒いスフィンクス」と象徴化されているだけで、
“ユーモア”の部分の定義において、それはシュルモア(超自我)の上に成り立つもので、それは「客観的偶然」=「白いスフィンクス」と対のものでありながら、それら「二人のスフィンクスの抱擁の産物」として、創造物を取り扱っていることが示される。
その中で、とにかくこのアンソロジーは、前者のスフィンクスに重点を置きつつ読みたい文学を集めたものだということだろう。
とにかく避雷針は別にして、単に毒のあるユーモアを含む作品を集めたということだ。

さて、ブルトンは他にも、『魔術的芸術』という、絵画における『黒いユーモア選集』のようなものも編集しているが、それは例えばバルトルシャイティスの『幻想の中世』のようなものだろうか。
文学、絵画の“黒い”アンソロジーを手がけたブルトン。
しかし、音楽の分野には手をつけてはいない。

そこで、では、その音楽ヴァージョンをちょっと選出してみようじゃないかというのが、今回の企画なのです。
その選出基準としては、必ずしも“黒いユーモア”には限らず『魔術的芸術』のように“毒”と“黒さ”に注目したいと思う。
そして、出来るだけメジャーなものを選出したい。


まず、作曲家といえばはじめに思いつくのは何と言ってもベートーヴェンであろう。しかし、彼には暗い部分があっても、それは必ずしも“毒”とは結びつかない。
ただし、それが思い当たらない節もない。

澁澤龍彦は、18世紀“毒の御三家”として、スウィフトとサド、ゴヤを挙げている。
確かにスウィフトは“黒いユーモア”に、その先達として重要視され選出されている。確かに毒もユーモアも巧妙だ。しかし、真の暗さを含むものではないと僕は思う。それはシュールレアリストの先達としてヒエロニムス・ボスを挙げたり、印象派の先達としてターナーを挙げたりするようなものだと僕は思うのである。だから、敢えてスウィフトは“毒の御三家”からははずしたい。
では、代わりに誰が入るのかと聞かれれば、当然、ベルリオーズでしょう。ゴヤとベルリオーズは、マーラーとクリムトのように、その精神性が密接に語られる2人だろう。
それに、スウィフトだと、その御三家は文学者が2人も入り、バランスが悪い。まあ、音楽に精通していないと自身でも言っている様に「視覚型人間」の澁澤が選出した御三家だから仕方が無いことだと思うが、僕の「ベルリオーズ、サド、ゴヤ」のほうがしっくり行くでしょう、皆さん?
ということで、確実にベルリオーズは音楽盤黒いアンソロジーに含まれるわけだ。

ところで途中になっていたベートーヴェン。彼もまた、小山田義文『ゴヤ幻想』(2002三元社)の中で、ゴヤと結びつけ語られている。
その“聾”と“梅毒”による“心の闇”に関してであった。
ゴヤが50歳ごろ描いた自画像は、驚くほどベートーヴェンの肖像に酷似しているどころか、ボードレールすら想起させるものだった。ボードレールもまあもちろんデカダン派ゆえに『黒いユーモア選集』に選出されているが、まあ、そういう意味で“暗い”共通性はあるだろう。
『黒いユーモア選集』にスウィフトが入っているように、ベートーヴェンも選出してしまってもいいのではと思うが、スウィフトに対応するのはモーツァルトのような気もする。
だから、散々引っ張ったベートーヴェンは、今回除外させていただいて、モーツァルトを加えよう。

さて、なかなか話が進まなくてイライラしている読者もいるかもしれないので、ここから少しピッチを早めよう。

やはり、チャイコフスキーははずせまい。音楽はものすごくわかりやすく、オーケストレーションも華麗で互いに溶け合っているが、彼の奇行と自殺に経緯を評して。
その点で行くと、シューマンも挙げたいが、彼は少し真面目すぎる。

印象派の作曲家たちはどうだろう。
もちろん除外だ。イメージで語られる彼らは、ブルトンのイコノロジーに反する。

そして、絶対にはずすことが出来ないのは、やはりミスター黒いユーモア、マーラーだろう。
マーラーの最大の魅力と特徴として、誇大妄想主義、自己韜晦、黒いユーモアが挙げられよう。
その巨大なアマルガムを形成したオーケストレーションは、まさに分裂症そのものだ。
『魔術的芸術』には、当然のごとく世紀末芸術の代表、クリムトは顔を現すだろうが、もちろんマーラーがその音楽盤に顔を出さないはずがあるまい。

さて、その自己韜晦や黒いユーモアをそのまま受け継いだショスタコーヴィチも選出されてしかるべきだと思う。
さらに、そのショスタコーヴィチを曲の中で揶揄したり、スキャンダラスな『中国の不思議な役人』や『青髭公』なども作ったバルトークも入れたい。

時代は少し戻って、サン・サーンスも、『魔術的芸術』に取り扱われるであろう“死の舞踏”を作ったり、動物の謝肉祭で見せたユーモアを買って、選出しよう。

サティはどうか?確かに、曲はいたって普通だが、題名がぶっ飛んでる。あまり“黒いユーモア”という感じはしないにしても、まあ、『黒いユーモア選集』にはルイス・キャロルも選出されているので、選出しようじゃないか。

ケージはどうか?確かにエッシャーやマグリットが絵画で行ったように、ケージは音“そのもの”に対して問いかけをした。でも、その辺になってくると少しキリがなくなってしまう。まあ、ぎりぎりOKということで。

あ、シュトラウスやアンダーソンは?
悩ましいところではあるが“毒”をそこから抽出することは難しいので却下したい。


そんなところで、選出は以上とすることにしたい。

・モーツァルト
・ベルリオーズ
・サン・サーンス
・チャイコフスキー
・マーラー
・サティ
・バルトーク
・ショスタコーヴィチ
・ケージ

あれ??たったこれだけ??

結局自分の好きな作曲家が多くなってしまったが、僕が『黒いユーモア選集』や『魔術的芸術』で取り扱われたアーティストを多く偏愛していることに起因するもので、決して偏見というものではないことを主張したい。
もし、皆さんがこれを読まれて、「あれ?この作曲家はどうですか??」と思ったときは、どうぞお気軽にコメントして欲しい。
すごく嬉しいので。
もしくは、意見、批判もあれば、どしどしどうぞプリオネ左向き


もっと知りたい!作曲家のブログ

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ベートーヴェン後期弦楽四重奏曲のススメ

ベートーヴェンといえば、いわずと知れた“楽聖”。音楽の神。
そして、何と言っても、キング・オブ・ザ・シンフォニー。
彼の9つの交響曲の前に多くの芸術家がひれ伏してきた。
そう、その9つどれもが音楽史上最も優れた作品とされている。
第3番『英雄』、第5番『運命』、6番『田園』、ベト7、第九!
名前を聞けば誰もが震え上がって死ぬ。うそ、死なない。

それからやはりピアノソナタも名曲揃い。
月光、熱情、悲壮など、聴けば誰もが「ああ、この曲知ってる、ああ美しい」となるような名曲。

しかし、弦楽四重奏と聞いて、何か曲が思い当たる人がいるだろうか。
ベートーヴェンに限らず、この分野はもっとも敬遠されているように思う。
何せ音色が弦楽器だけである上、ピアノみたいに気軽に1人で演奏できないし、
何よりも、この分野は作曲家が最も内なる世界に閉じこもりやすいものである。
サービス精神が少ないというか、地味というか・・・。


この分野で、神といわれる2人の作曲家がいる。
ベートーヴェンとバルトークだ。
僕はそのどちらの作曲家も非常に好きだが、ここでは前者の後期作品にスポットを当てて紹介したい。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の後期作品は、その12番~16番の5曲だが、これらは少々難解でとっつきにくいものであるため、19世紀ロマン派、長い間評価されずにいた。
例えば、作曲家シュポーアは
「わけのわからない、取り返しのつかない恐怖」と言った。
ベートーヴェンの作品に恐怖を感じたのは、同時代のゲーテもそうであったが、そう考えると多くの人間がそれらの作品を理解できなかったのだろう。この時代の人々には早すぎる作品だったのかもしれない。
他にもいろいろそれらの批評の声は多く残されているが、少なくとも20世紀までは「人を寄せ付けない」とか「不可解」などと言ったものが多かった。

しかし、20世紀に入り、現代音楽界で最も神格化されたあのストラヴィンスキーは
「絶対的に現代的な楽曲。永久に現代的な楽曲。」と述べた。
ストラヴィンスキー自体、傑作『春の祭典』で、大きな賛否の反響を呼び人々を狂乱させたが、
まさにベートーヴェンの弦楽四重奏曲13番の終楽章、『大フーガ』はそれこそ、春の祭典のそれに匹敵するもしくはそれを超える混乱を生んだだろう。
2曲とも、大変野性味溢れた“フォービズム”という言葉にふさわしい音楽だ。

他にも、宮沢賢治は、後期弦楽四重奏曲の後期作品を、第九以上の傑作とみなしていたようだ。
とにかくそれだけ、死を悟ったベートーヴェンの、人生への諦念というか、その深い、しかし内向的な精神をそのまま音にしたような神々しい作品郡であることは間違いない。


『弦楽四重奏曲第12番』は変ホ長調の、とても親しみやすい楽曲だ。
上の文と矛盾するようだが、やはり音楽的な革新性は高く、一筋縄で説明できないところが多々ある。
1楽章は鋭利で鮮烈な主和音で始まる。その後威勢のいい曲調で展開される。
で、最後の4楽章、これがまたものすごく僕が好きな曲。
チャイコフスキー風の軽やかな行進曲のような、ウキウキしながらお散歩するような、そんなかわいい音楽。
でも、やっぱりベートーヴェン。その中でもやっぱりどこか重厚な感じがする。その対比がたまらないね。うん。


『弦楽四重奏曲第13番』は、後期の作品の中では最も目立つ作品。しかも一番長大で難解だと思われる。でも、名曲揃い。
1楽章 Adagio, ma non troppo - Allegro :ソナタ形式の、堂々たる楽章。僕にはやっぱりとっつきにくい音楽に思えてしまう。
2楽章 Presto :流れるように早い楽章。おそらく最初は誰もがこの曲に心奪われるんじゃないかと思う。かっこいい。
3楽章 Andante con moto, ma non troppo. Poco scherzoso:田舎風の、なんか民俗舞踊風の音楽。 題のPoco scherzosoのとおり、緩徐楽章とスケルツォの中間のような印象を持つ。人気の高い楽章。
4楽章 Alla danza tedesca. Allegro assai :ドイツ舞曲風に。メヌエットというかレントラーというか、軽い感じの舞踏楽章。きれい。
5楽章 Cavatina:有名な「カヴァティーナ」。大変美しい、正真正銘の緩徐楽章。

この13番には2通りの6楽章がある。「大フーガ」と「新6楽章」の2つ。
新6楽章は、旧6楽章の「大フーガ」があまりに難解で、当時の聴衆からの評価が良くなかったため書き直したもの。現代になり、大フーガが再評価され、今日ではどちらのヴァージョンも見られる。
旧6楽章 大フーガ:非常におどろおどろしく、重厚で、前の楽章たちとは不釣合いに長い曲。でも、聞けば聞くほどすごい曲。まさに「永久に現代的な楽曲」。
新6楽章 Allegro:旧作とはまったく正反対の軽やかな曲。でも素敵な曲。こんな素敵な曲をベートーヴェンが書いてしまって残念。ダメな曲を書いていれば、心置きなく大フーガに戻せたのに。


『弦楽四重奏曲第14番』こそ、やはり一番人を寄せ付けない曲で、全体に何か狂気のような陰鬱さをはらんだ曲。全楽章切れ目無く演奏されることも、人を寄せ付けず緊張感を与える理由の1つだろう。アマチュア禁止の曲とも言われている。僕はものすごく好き。
まず、この時代では非常に珍しく、1楽章がAdagio(すごくゆっくり)で、その上長い、しかも全体に陰鬱な雰囲気を漂わせている。
5楽章は一見明るいが、なにか狂気じみたものを感じる“変な曲”として知られている。
7楽章は、なんかものすごく機械的で、非常に厳しい、しかも勢いのある曲。規律の取れた貴族の軍隊のよう。


『弦楽四重奏曲第15番』は、中間の第3楽章「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」をクライマックスとした曲。
その第3楽章は「人類最高傑作」とも呼ばれるほど美しく、非常に澄んだ瞑想の世界。機能和声を捨てて旋法で美を表現することを思いついたベートーヴェンはすばらしすぎる。


『弦楽四重奏曲第16番』は、ベートーヴェン最後の作品。小規模だが、これまた不可解な曲。
「ベートーヴェンのすべての技法がここに集約されている」というわけではなく、それとは別の、僕らが生きている世界とは別世界に半分旅立ったような曲。
終楽章の緩やかな導入部の和音の下に、“Muss es sein?(かくあらねばならぬか?)”と記入しており、より速い第1主題には、“Es muss sein!(かくあるべし)”と書き添えている。その言葉もだが、旋律も不可解なものだ。

“死の舞踏”の繁栄

“死の舞踏”という主題は、14~16世紀を中心に、多くの西洋絵画の主題に選ばれてきた。
14世紀のペストの流行がモチーフとなっているという説が有力だが、
死におびえる人々は、広場で死ぬまで踊り続けたという。
16世紀の、『大使たち』で有名なハンス・ホルバインもその題材で版画を彫っているが、
そこでも見られるとおり、“死”の擬人化として“骸骨”が用いられている。
現在でも死神=骸骨で表されることは多いが、それはどの時代でもさほど変わらないことなのだろう。
そこには、死への純粋な恐怖というよりはむしろ、“死との馴れ合い”が見て取れると、坂崎乙郎は著書『幻想芸術の世界』の中で述べている。
坂崎はそれを『死の舞踏』という主題における陥穽と、否定的にみているが、僕にとってそれは、逆に不気味に感じられる。
“陽気な死”の表し方。
あまりに楽天的で狂気じみた世界のように。
それは、20世紀まで時代を進ませれば、スティーブンキングが「イット」で見せる殺人ピエロの恐怖と同じ類のもので、陽気な音楽に乗って陽気に人間に襲い掛かる、ピエロという“馴れ合い”を目的としたものをむしろ逆手に取った、見事な恐怖の描き方であった。

音楽における“死の舞踏”は、やはりサン=サーンスやリストが有名だろう。
そこには、やはり絵画の“死の舞踏”のように、おどけた、諧謔的な不気味さが潜んでいる。
そこで語られる“死”の象徴は、やはり滑稽な“骸骨”=木琴である。
リストは、グレゴリオ聖歌のレクイエムの“ディエス・イレ(怒りの日)”を題材として取り上げているが、
その旋律は、西洋では誰もが知っている“死の旋律”である。
いわば、その旋律が、音楽における“死の舞踏”の題材のように扱われ、他にもベルリオーズ、ラフマニノフなど多くの作曲家に引用されている。
中でもベルリオーズの『幻想交響曲』の第5楽章は非常に不気味で、サバト(魔女の宴会で、山羊の悪魔バフォメットを中心として行われる)の場面を描写しているが、またしても諧謔的で、滑稽にすら思える。最後は集団狂気に陥ったように、躁状態のまま華やかに終わる。
“集団狂気”というキーワードもまた、“死の舞踏”の根幹を成す要素なのであった。

さて、音楽、絵画、文学、他、それら隣接芸術は、やはり時勢的な共通点を持つものだが、
“死の舞踏”の盛期を、僕はある3点に絞りたい。
すなわち、
①ルネサンスのヒエロニムス・ボスやブリューゲル、ホルバイン、リュッツェルブルガー、それに続くバロックのカロ(戦争の惨禍)など。
②ロマン派のベルリオーズとゴヤ。
③世紀末芸術~シュルレアリスト。

3点に絞るといいつつ、非常にバランスが悪いことをお許し願いたい。

①はまだ音楽が芸術として昇華される以前のものであるため絵画における盛期である。
キリスト教において“彗星”は不吉の象徴であるが、それがもたらす災いは、自然災害、疫病、戦争である。面白いことに、日本の法華経においても、“彗星”は不吉の象徴とされ、自然災害、疫病、自界叛逆(じかいほんぎゃく=内乱のこと)と他国侵逼(たこくしんぴつ=戦争)であることは面白い。
①の場合は特に、中世の西洋を席巻したペストの脅威と100年戦争だろうか。ボッカチオの「デカメロン」はその開始宣言のように思えなくも無い。
②のベルリオーズとゴヤはよく関連付けられる同時代の2人である。絵画と音楽には同時代で関連付けられる定番があり、その最も有名な例だろう。悪魔崇拝のようなオカルティシズム(さらにそこには独特の歪んだエロスが含まれている)に主な特徴が見られる。
③そして、もう一つ、その絵画と音楽の関連付けの定番の常連といえば、グスタフ・マーラーとグスタフ・クリムト、2人の“グスタフ”。
各世紀に当然“世紀末”はあるのだが、19世紀末を取り立てて“世紀末芸術”と呼ぶのは、やはり10世紀単位の世紀感から、終末観を多く感じ取り、実際に「ロマン派」という長い時代は調性和声と共に解体されていった時期でもあった。誰もがそこに“限界”を感じたのだろう。
そこで扱われるテーマは、死、退廃、懐疑といったネガティブなものとなる。
その中心がマーラーとクリムトだったのである。
ユーディト=サロメ=アルマ・マーラー(マーラーの奥さん)と言ったファム・ファタル(宿命の女)と言った主題は、②のゴヤやベルリオーズにおける梅毒論にも結びつく。ファム・ファタルは大抵、男を翻弄する悪女のような姿で描かれ、それは日本における仏教思想の「飛閻魔(ひのえんま)」にも見られる。
そして、当然のように描かれるネガティブの究極体、“死”である。
死と生
例のごとく、死は骸骨で表される。
一方、マーラーは、最後の交響曲、すなわち「大地の歌」、第9番、第10番は死の3部作と呼ばれており、また、マーラーのほとんどの交響曲には、楽章として「死の舞踏」が含まれる。その多くはスケルツォ楽章であるが、スケルツォは日本語では“諧謔曲”と訳される。
実際、交響曲第4番の第2楽章や交響曲第10番の第4楽章で描かれる死神は、マーラーが「陽気なやつ」とか「私と共に死神が踊る」と、そこにはやはり“馴れ合い”が見られる。
死神や死、悪魔を表す楽器としては、これは西洋では通俗だが、ヴァイオリン、クラリネット、ミュートトランペット、そして木琴。
悪魔や死神がヴァイオリンや笛類を奏でる絵画はベックリーンをはじめ非常に多い。さらに、サン=サーンスの交響詩『死の舞踏』やマーラーの交響曲第4番の2楽章では、通常通りに調弦されていないヴァイオリンが登場し、さらに不気味さを演出する。
ミュートトランペットは、不吉な音がするが、「トランペット」自体、天使を意味する楽器だが、そのベルを塞ぐという行為自体不吉を意味するのではないかと思う。
木琴は前に述べたように“骸骨”の象徴である。

マーラーの多くの交響曲に含まれる“死”のキーワード、すなわち“葬送行進曲”“死の舞踏”“レクイエム”などは、第3、8交響曲以外の8つの交響曲にすべて入っている。
それも非常に自己韜晦とアイロニー、諧謔にまみれた形で。
非常に不気味な世界がそこに広がる。
ことに第7交響曲(夜の歌)の唐突な躁状態はまさに“分裂症”的で、狂気乱舞という言葉がぴったりだ。病的な躁状態と不安定さ。
マーラーを語る上で無視できないキーワード“分裂症”は、そのままボスやシュールレアリストの特徴とするところである。
そこに、シュールレアリストという新たな“死の舞踏”の画家たちの存在が現れるわけだが、
まあ、ここでは、マーラーが、現代音楽のシュールレアリストを語る作曲家たちよりもシュールレアリズム的だということだけ語っておきたい。
それは解体と結合、コラージュ、自己韜晦といったところか。
それを、あくまでわかりやすいモチーフを元として行う。
そこにはマンネリ化した骸骨に代わる新たな死の象徴が多く現れる。
それが、ベルメールの「人形」であったり、ベーコンの解体、融解、叫びと言ったテーマに結びつくのではなかろうか。
むしろ「マンネリ」はシュールレアリストの一つの特徴でもあるわけだが、
その「マンネリ」も彼らの中で最大限に昇華され、分解と結合によって新たな形を得るまでになっていると僕は考える。


さて、この記事は音楽に分類しようか、絵画に分類しようか。
あああ、分裂症。


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最凶のトラウマソング

僕も最近知ったばかりなのだけど“最凶のトラウマソング”として有名な児童合唱曲があるらしい。
皆さんは知ってるかなあ?

『チコタン~ぼくのおよめさん』・・・。“チコタン”が題名で“ぼくのおよめさん”が副題。

チコタン4
チコタンの楽譜。

チコタン3
チコタンの楽譜。

チコタン2
メジャーなチコタンの絵本。

合唱曲の分野では有名な、
作詞:蓬莱泰三
作曲:南安雄
のペアの作品で、このペアの有名なものとしては『日記のうた』というものがあり、こちらは小学生のときに、合唱コンクールで何度か聴いたことがある。
組曲形式の長い曲だった。

さて、このチコタンは5つの楽章からなる、12分くらいある曲。
1章:なんでかな?
2章:プロポーズ
3章:ほっといてんか
4章:こんやく
5章:だれや?
となっている。

1~4章までは、少年の甘い恋心を描いたかわいい世界である。
でも・・・。

チコタン1
同じくチコタンの楽譜・・・。

この曲は、1~4章が前半、5章が後半という、長さ的にも5章に重点が置かれているが、
児童合唱の場合1~4章だけを歌うなどという例も見られる。
その終楽章に重点がおかれる点に関しても、また、暗い内容に関しても、
マーラーの交響曲『大地の歌』を思わせる。
また、僕の寓話的弦楽四重奏曲も考えてみればそうだった。

とにかく、そんなに長くない曲なので、どうぞお聴きください、
怖い・・・というか、やっぱトラウマな内容。

ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2452876

You Tube
http://www.youtube.com/watch?v=xEv8LseRkI4

最初のスタッフロールからして怖いので、
ニコニコ動画に登録されている方は、スタッフロールが省略されていないニコニコ動画のほうをご覧になることをお勧めします。

シューマンが怖い

先日、樋口裕一という人の著『ヤバいクラシック』(幻冬舎)という本を読んだ。
全体としてはう~んって感じだったけど、ところどころ面白い項目があった。
まえがきは十分共感できるものであったし、第一章の変遷の部分もまあまあ面白かった。
そして、特にベルリオーズの『幻想交響曲』の項目が面白かったように思う。

その中で“よく聴いてみるとヤバイクラシック”の項目として、なんとロマンチック音楽の象徴のような存在であるはずのトロイメライが挙がっていた!
僕は、「僕以外にこの曲に“怖さ”を感じる人がいるのか!」とびっくりした。

“トロイメライ”というと、シューマンのピアノ曲『子供の情景』の第7曲で、その甘美でロマン溢れる親しみやすさから、『子供の情景』のみならず、今日ではこの作曲家の最もよく知られた代表曲となっている作品である。
名前を知らなくとも、そのメロディを聴いたら誰でも「ああ、この曲か。」と思うはずである。
僕は、この皆に知られたこの人気曲を聴くたび、ゾクッとするような寒気が襲ってくるのだ。
フッと一瞬宙に浮いたような浮遊感とともに、寒気が走る・・・。

僕は自作の弦楽四重奏曲“寓話的”の第3楽章として、同名の「とろいめらい」という副題を持つ曲を描いている。
その曲想たるや、シューマンの甘美な旋律とは程遠い、シェーンベルク風の、しかも重々しい葬送行進曲である。

シューマンとは、音楽史上、狂人として名が通った人物の一人で、梅毒由来の精神病で、晩年は精神病院に入った。
樋口は『ヤバいクラシック』で、、あの“トロイメライ(夢み心地)”は、正気を脱して“狂気”へと足を踏み出す合図のように思う、と語っている。
僕はまあそんな風に具体的に言い表すことはできないが、何か気持ちの悪い、怖いものを感じ取ってしまうのだ。
それには、僕の特殊な事情もある。
あの曲にはトラウマがあるからだ。

小学校低学年の夏休み、親に言われて無理やり行かされた「サマーキャンプ」というものがあった。
親元を離れて、変な公民館か病院のような施設に1週間ほど泊まらされて、いろいろな経験をするというものだった。
怖がりな僕は、夜が本当に怖かった。
お化けへの恐怖心とホームシックで打ちひしがれる。
毎晩隠れて泣いていたのを今でも思い出す。
そんな暗い消灯時間の合図が、あの“トロイメライ”だった。
放送で流されるのである。

しかし、そんなトラウマだけでなく、それ以前からずっとその“トロイメライ”がどこか気色悪く思っていたのだが、その出来事はその感をさらに強くした。

僕が“怖さ”を感じるシューマンの曲はそれだけではない。
なんといっても、あの曲・・・、
そう・・・、交響曲第3番「ライン」。
1楽章は映画「ウィロー」のサントラに酷似してて大好き!!
2、4、5楽章もまあいい。
怖いのは第3楽章だ・・・。
最初聞いたときは、本当に「身の毛がよだつ」という体験をした。
いきなり後ろから、肩にあごを乗せられるような・・・、そんな感触。
シューマンは、きも怖い、どこまでもナイーブで本当に綺麗なのだが、油断すると恐怖体験をしてしまう。


でも、僕は、そんなシューマンが好きだ。むしろ、シューマンの“怖い曲”が好きだ。
怖さやトラウマを与えてしまうほどに力を持っている曲、それでこそ芸術家なのだと思う。
クラシック、芸術音楽とは、BGMという概念とは程遠いものであるべきだと私は思う。
正気の音楽は、結局枠内にしかとどまるものではない。

ロマン・ローランの「ベートーヴェンの生涯」の中で、ゲーテがベートーヴェンの曲に恐怖を覚えた手記が紹介されているが、かつて私は、宮沢賢治の『青森挽歌』の一節“おまへの武器やあらゆるものは/おまへにくらくおそろしく/まことはたのしくあかるいのだ”や“感ずることのあまりに新鮮にすぎるとき/それをがいねん化することは/きちがひにならないための/生命体の一つの自衛作用だけれども/いつでもまもつてばかりゐてはいけない”と絡め、解読を試みたが、
まさに真の芸術とは、その“がいねん化”という“自衛作用”を超えたところにあるのだ。
社会学者の見田宗介は、同じく社会学者のイーフー・トゥアンの恐怖の要因説を用いているが、つまり理解の許容を超えたとき人は恐怖するのだという。
しかし、その“自衛作用”としての“がいねん化”を超えたところに“まことはたのしくあかるい”芸術があるのだから、“いつでもまもつてゐてはいけない”のである。

僕にとってのシューマンの浮遊感を伴う寒気というのは、もしかするとそういった種類の恐怖なのかも知れない。
しかしその演繹が実証されるのならば、もしかすると逆に、“恐怖心”が時に芸術に帰納することも考えられないだろうか。


ゴヤは、私の好きな画家の一人だ。
ゴヤはそのころ(19世紀前半)の一般の画家と同じように宮廷画家として働いているのだが、やはり彼の今日での人気の理由は、晩年聴力を失ってから「聾者の家」と呼ばれる別荘に引きこもって描いた“黒い絵”と呼ばれる作品郡をはじめとする、暗くグロテスクに変貌していってからの作品だろう。
わが子を食らうサトゥルヌス
上の絵は“黒い絵”の一つ、あまりにも有名な『わが子を食らうサトゥルヌス』だ。

ゴヤが聴力を失った原因も「梅毒説」が有力だが、ここでは、この“梅毒”が狂気=聾への鍵の役割を果たしたのだ。
以前試みた、宮沢賢治とベートーヴェンを絡めた論文では、賢治が「銀河鉄道の夜」などで描く、鍵を持った“黒い男”が、その“がいねん化”から解き放つ存在として描かれており、その“黒い男”をベートーヴェンに重ね合わせられることを指摘したのだが、
さらにこのころのゴヤの自画像を見ると、誰もがはっとするのである。
それは、ベートーヴェンの肖像画と瓜二つであるからだ。
聾に悩まされるベートーヴェンの交響曲第5番“運命”、それは、画家のゴヤにとっては“黒い絵”なのかも知れない。

ここに、ゴヤ=ベートーヴェン=“黒い男”の方程式をもって説明すれば、ゴヤは我々を芸術に誘うキーマンということになる。
恐怖という心的衝撃が、芸術へと帰納する瞬間を我々は鳥瞰したのではなかろうか。
と考えるのは果たしていき過ぎかな??

宮沢賢治の、春と修羅の序文の「複合体」としての自我を解体するものとしてのオブセッション(強迫観念)、その象徴が“黒”という色にあると天沢退二郎は指摘するが、
ゴヤの狂気へと誘うそれも“黒い絵”であった。
そして、その解体された先に“まことはたのしくあかるい”芸術という世界があるのではなかろうか。

テーマ:音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

プロフィール

はじめ様

Author:はじめ様
血液型:O型
趣味:音楽鑑賞、読書、ツーリング、心霊スポットめぐり
好きな作曲家:ベートーヴェン、マーラーなど


一応作曲家です。
まだまだ先は長いですね。まるで樹海を彷徨っているようです。
ようこそ、僕の森へ。

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