スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

春の呪い~逆接めく恐怖概念~

僕にとって“恐怖”という概念は子供のころからもっとも興味をそそられる感情の一つだった。
しかし僕は今、それについて脳科学の見地から述べる知識は残念ながら持ち合わせていない。
というか、その方向から述べることは僕の興味をそそらない。
それには、まず調べる手段がないこと、
そして、飛躍した意見を持つことに、脳科学者で無い限り限界地点が必ず来るからである。
要するに、T・S・エリオットの有名なアナロジーの、“触媒反応”としての発想術が機能しないからである。
すなわち、ある事象と別のある事象を化学反応させて論理を組み立てるところの発想のセンスを最大限使ったところで、所詮脳科学の研究成果の範疇に納まりきってしまうからである。
だから僕は、それらを文化人類学、社会学的に語ることに専念する。
ちなみに『お化け屋敷で科学する』はまさに前者の視点で語られていたが、別段大したものではなく、興味は沸かなかった。


前置きが長くなってしまった。
『春の呪い』というのは、小学生のとき、僕の友人が見た夢のタイトルである。
それを友人から聞き、結構印象に残っていて、黒澤明の映画『夢』を見るとき、いつもそれが思い出される。
その夢は、その友人が『少年自然の家』という宿泊施設(愛媛県西条市では、5年生のときの恒例の行事で、各学校でそこに宿泊させられる。僕は嫌すぎて泣いた)で見たといっていた。
こんな内容だった。

~桜が満開の桜並木を彼は歩いていた。でも、夢ではよくあるようにその姿は客観視していたという。
で、しばらくすると、満開の桜が突如枯れて散り始める。散って隠れていた枝の部分にはそれぞれの樹に幾体も首を縄でくくった骸骨がぶら下がっていた。
そして、それらの骸骨が降りてきて、その歩いていた彼(もうそのときには完全に友人自身ではなくなっている)をぐちゃぐちゃに食べはじめた。そのBGMとして、サーカスでピエロがおどけるときのような、もしくはメリーゴーランドが回るときのような、聞き覚えのあるあの音楽か、もしくはヴィヴァルディの「春」のような楽しげな楽観的な曲が流れた。
で、彼が完全に骨になるまで食われたところで、その背景のまま“春の呪い”というタイトルが出た。
でも、その“春の呪い”という字も、なにかハングルのような、よくわからない文字だった。~

以上がその友人が見た夢。
非常に“夢”っぽい狂気に満ちた怖ろしい夢だ。
我々に戦慄を覚えさせる要素はたくさん含まれているように思う。
その要素はざっとこうだ。
①幽霊、妖怪、闇など、概念化できないものに対する恐怖。
②命を脅かされる危険からくる死の恐怖。
③カニバリズムなどの異端の要素による集団幻想の崩壊の恐怖。
④視点の転回による自我の解体の強迫観念。
⑤嘲笑的な、逆接めく恐怖(後に詳しく説明する)。

①の“概念化”とは、宮沢賢治における“がいねん化”のことで、詳しくは過去の記事シューマンが怖いを参照していただきたい。
③は例えば、集団におけるタブーが犯されたときにおこる危機感のようなもの。
④は、客観視された自我の身体が崩壊していく中で、自我の居所を失うところに起こる恐怖。自我の解体、もしくは分裂の恐怖。

さて、僕が今回特に述べたいと思うのは他でもない。⑤だ。
その“恐怖のパラドックス”は、僕の目指す芸術の根本となる論理となる(ごめんなさい偉そうなことを書いて)。
つまり、ここからが本当の本編。
テストにでるところ。


『春の呪い』の夢を思い出すにあたって、僕は『檸檬』で有名な、かの梶井基次郎の『桜の樹の下には』を思い出さずにはいられない。
「桜の樹の下には屍体が埋まっている。」
から始まるこの短編小説。
「この爛漫(らんまん)と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい。」
この文章から、各桜の樹ごとに死体が埋まっていると考えているらしいことがわかる。
その文章に続き、
「馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛(ふらん)して蛆(うじ)が湧き、堪(たま)らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪(どんらん)な蛸(たこ)のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚(あつ)めて、その液体を吸っている。」
とある。
この小説の主人公は、桜のその純粋すぎる美しさが信じられない、受け入れられない、直視できない、それこそ“概念化”しきれないのであった。
そして、主人公は、その信じられない美しさを“概念化”するために、中和剤としてそういう思い込みをした。
子供店長に言わせて一連のことをわかりやすく説明すると、
僕の友人のまりどんが「キムタクはかっこよすぎて好きになれない、見てて恥ずかしくなる」と言ったようなものだろうか?よくわからないけど。で、直視するために、「ああ、キムタクは整形したんだ、もともとゴリラみたいな顔だったんだな。」とすることで自分を納得させるといった具合なのでしょうか。わからないけど。

しかし、そこにこの小説が戦慄を覚えさせる因子があるのは理解していただけると思う。
同小説で、水溜りに、石油を流したような美しい虹彩を主人公は目にするが、近くに寄って見るとそれは、産卵を終えて水溜りに浮かぶたくさんのウスバカゲロウの死骸だったということ。
もしくは、トーマス・マンの『欺かれた女』の中のワンシーン、
麝香香水の匂いに惹き付けられた2人の夫人の前に現れた、その匂いの元。すなわち、道端のたくさんの糞尿、大量の腐敗菌を沸かせていて、そのそばには腐敗した獣の死骸なども落ちているところのそれである。それらが遠くから匂うと、薄められて麝香の香水の匂いがしたのだった。ということ。

つまり、純粋な美しさの裏にある醜悪なものの存在である。
その醜悪な“正体”は、その見かけが美しければ美しいほど、我々に与える戦慄は大きいのだった。

恐怖を生み出す要素として、全く対極にあるものを援用すること。
それこそが⑤番目の最大の恐怖の巧みな演出要素である。
“死の舞踏”での死との馴れ合い、スティーブンキングの『イット』のピエロ、『ダイ・ハード』の、屈折した第九の歓喜の歌。


『春の呪い』に話を戻そう。
『春の呪い』におけるその⑤の要素とは、
梶井のときのように“満開の桜”はもちろん、おどけたような骸骨、そしてメリーゴーランドの曲、もしくはヴィヴァルディの『春』である。
その屈折した楽観要素、それがかえって恐怖を高める素材と転じている。
僕はそれを、『梶井パラドックス』と呼ぼうか。
それとも、梶井の命日を『檸檬忌』と呼ぶから、『檸檬パラドックス』とでもしようか。
いいや、いっそ『春の呪い』をみた友人はよしひろというから『よしひろパラドックス』としようか。
いいや、『桜のパラドックス』いや、『ゴリラパラドックス』いや、『ボリビアンボリボックス』、いや、『ブリリアントポリピックス』、いや、『ベイクドチーズケイキックス』・・・・

なんでもいいや、じゃあ『ゲスモンケサス』と呼ぼう。
なにそれ?


関連記事:“死の舞踏”の繁栄

人気の作曲家ブログ

スポンサーサイト

comment

post a comment


管理者にだけ表示を許可する

trackback

プロフィール

はじめ様

Author:はじめ様
血液型:O型
趣味:音楽鑑賞、読書、ツーリング、心霊スポットめぐり
好きな作曲家:ベートーヴェン、マーラーなど


一応作曲家です。
まだまだ先は長いですね。まるで樹海を彷徨っているようです。
ようこそ、僕の森へ。

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

アクセス数

検索フォーム

ブログランキング

ブログランキング・にほんブログ村へ

人気ブログランキングへ

樹海へ

上の各種バナーをクリックしてね!

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。