FC2ブログ

シューマンが怖い

先日、樋口裕一という人の著『ヤバいクラシック』(幻冬舎)という本を読んだ。
全体としてはう~んって感じだったけど、ところどころ面白い項目があった。
まえがきは十分共感できるものであったし、第一章の変遷の部分もまあまあ面白かった。
そして、特にベルリオーズの『幻想交響曲』の項目が面白かったように思う。

その中で“よく聴いてみるとヤバイクラシック”の項目として、なんとロマンチック音楽の象徴のような存在であるはずのトロイメライが挙がっていた!
僕は、「僕以外にこの曲に“怖さ”を感じる人がいるのか!」とびっくりした。

“トロイメライ”というと、シューマンのピアノ曲『子供の情景』の第7曲で、その甘美でロマン溢れる親しみやすさから、『子供の情景』のみならず、今日ではこの作曲家の最もよく知られた代表曲となっている作品である。
名前を知らなくとも、そのメロディを聴いたら誰でも「ああ、この曲か。」と思うはずである。
僕は、この皆に知られたこの人気曲を聴くたび、ゾクッとするような寒気が襲ってくるのだ。
フッと一瞬宙に浮いたような浮遊感とともに、寒気が走る・・・。

僕は自作の弦楽四重奏曲“寓話的”の第3楽章として、同名の「とろいめらい」という副題を持つ曲を描いている。
その曲想たるや、シューマンの甘美な旋律とは程遠い、シェーンベルク風の、しかも重々しい葬送行進曲である。

シューマンとは、音楽史上、狂人として名が通った人物の一人で、梅毒由来の精神病で、晩年は精神病院に入った。
樋口は『ヤバいクラシック』で、、あの“トロイメライ(夢み心地)”は、正気を脱して“狂気”へと足を踏み出す合図のように思う、と語っている。
僕はまあそんな風に具体的に言い表すことはできないが、何か気持ちの悪い、怖いものを感じ取ってしまうのだ。
それには、僕の特殊な事情もある。
あの曲にはトラウマがあるからだ。

小学校低学年の夏休み、親に言われて無理やり行かされた「サマーキャンプ」というものがあった。
親元を離れて、変な公民館か病院のような施設に1週間ほど泊まらされて、いろいろな経験をするというものだった。
怖がりな僕は、夜が本当に怖かった。
お化けへの恐怖心とホームシックで打ちひしがれる。
毎晩隠れて泣いていたのを今でも思い出す。
そんな暗い消灯時間の合図が、あの“トロイメライ”だった。
放送で流されるのである。

しかし、そんなトラウマだけでなく、それ以前からずっとその“トロイメライ”がどこか気色悪く思っていたのだが、その出来事はその感をさらに強くした。

僕が“怖さ”を感じるシューマンの曲はそれだけではない。
なんといっても、あの曲・・・、
そう・・・、交響曲第3番「ライン」。
1楽章は映画「ウィロー」のサントラに酷似してて大好き!!
2、4、5楽章もまあいい。
怖いのは第3楽章だ・・・。
最初聞いたときは、本当に「身の毛がよだつ」という体験をした。
いきなり後ろから、肩にあごを乗せられるような・・・、そんな感触。
シューマンは、きも怖い、どこまでもナイーブで本当に綺麗なのだが、油断すると恐怖体験をしてしまう。


でも、僕は、そんなシューマンが好きだ。むしろ、シューマンの“怖い曲”が好きだ。
怖さやトラウマを与えてしまうほどに力を持っている曲、それでこそ芸術家なのだと思う。
クラシック、芸術音楽とは、BGMという概念とは程遠いものであるべきだと私は思う。
正気の音楽は、結局枠内にしかとどまるものではない。

ロマン・ローランの「ベートーヴェンの生涯」の中で、ゲーテがベートーヴェンの曲に恐怖を覚えた手記が紹介されているが、かつて私は、宮沢賢治の『青森挽歌』の一節“おまへの武器やあらゆるものは/おまへにくらくおそろしく/まことはたのしくあかるいのだ”や“感ずることのあまりに新鮮にすぎるとき/それをがいねん化することは/きちがひにならないための/生命体の一つの自衛作用だけれども/いつでもまもつてばかりゐてはいけない”と絡め、解読を試みたが、
まさに真の芸術とは、その“がいねん化”という“自衛作用”を超えたところにあるのだ。
社会学者の見田宗介は、同じく社会学者のイーフー・トゥアンの恐怖の要因説を用いているが、つまり理解の許容を超えたとき人は恐怖するのだという。
しかし、その“自衛作用”としての“がいねん化”を超えたところに“まことはたのしくあかるい”芸術があるのだから、“いつでもまもつてゐてはいけない”のである。

僕にとってのシューマンの浮遊感を伴う寒気というのは、もしかするとそういった種類の恐怖なのかも知れない。
しかしその演繹が実証されるのならば、もしかすると逆に、“恐怖心”が時に芸術に帰納することも考えられないだろうか。


ゴヤは、私の好きな画家の一人だ。
ゴヤはそのころ(19世紀前半)の一般の画家と同じように宮廷画家として働いているのだが、やはり彼の今日での人気の理由は、晩年聴力を失ってから「聾者の家」と呼ばれる別荘に引きこもって描いた“黒い絵”と呼ばれる作品郡をはじめとする、暗くグロテスクに変貌していってからの作品だろう。
わが子を食らうサトゥルヌス
上の絵は“黒い絵”の一つ、あまりにも有名な『わが子を食らうサトゥルヌス』だ。

ゴヤが聴力を失った原因も「梅毒説」が有力だが、ここでは、この“梅毒”が狂気=聾への鍵の役割を果たしたのだ。
以前試みた、宮沢賢治とベートーヴェンを絡めた論文では、賢治が「銀河鉄道の夜」などで描く、鍵を持った“黒い男”が、その“がいねん化”から解き放つ存在として描かれており、その“黒い男”をベートーヴェンに重ね合わせられることを指摘したのだが、
さらにこのころのゴヤの自画像を見ると、誰もがはっとするのである。
それは、ベートーヴェンの肖像画と瓜二つであるからだ。
聾に悩まされるベートーヴェンの交響曲第5番“運命”、それは、画家のゴヤにとっては“黒い絵”なのかも知れない。

ここに、ゴヤ=ベートーヴェン=“黒い男”の方程式をもって説明すれば、ゴヤは我々を芸術に誘うキーマンということになる。
恐怖という心的衝撃が、芸術へと帰納する瞬間を我々は鳥瞰したのではなかろうか。
と考えるのは果たしていき過ぎかな??

宮沢賢治の、春と修羅の序文の「複合体」としての自我を解体するものとしてのオブセッション(強迫観念)、その象徴が“黒”という色にあると天沢退二郎は指摘するが、
ゴヤの狂気へと誘うそれも“黒い絵”であった。
そして、その解体された先に“まことはたのしくあかるい”芸術という世界があるのではなかろうか。

スポンサーサイト

テーマ:音楽 - ジャンル:学問・文化・芸術

comment

post a comment


管理者にだけ表示を許可する

trackback

プロフィール

ボリス

Author:ボリス
血液型:O型
趣味:音楽鑑賞、読書、ツーリング、心霊スポットめぐり
好きな音楽:ベートーヴェン、マーラー、シベリウス、ヴォーン・ウィリアムズ、谷山浩子、マイク・オールドフィールド など


一応作曲家です。
まだまだ先は長いですね。まるで樹海を彷徨っているようです。
ようこそ、僕の森へ。

カレンダー

10 | 2018/11 | 12
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

アクセス数

検索フォーム

ブログランキング

ブログランキング・にほんブログ村へ

人気ブログランキングへ

樹海へ

上の各種バナーをクリックしてね!

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR