自作ゲーム(空想)の攻略本

随分前になりますが、実家に帰省した時に、写真を撮ってきました。
昔書いた、架空のゲームの攻略本です。

主人公は、もちろん自分と弟で、いとこの住んでいる大阪に遊びに行ったときの体験を架空のゲームとして作ったものです。
その名も『くずは2丁目物語』。
RPGを想定しています。

IMG_2340.jpg
これが表紙。まあ、普通にノートの表紙に題名とやたら煽りすぎな煽り文を書いてるだけですが・・・。

この次にストーリーページが入り・・・

IMG_2334.jpg
ストーリーページの後には全マップ。
この地図はまるっきり架空と言うわけでもなくて、一応いとこの家の周辺をまねている。

次にモンスター図鑑。
IMG_2335.jpg

IMG_2336.jpg

そして、各ステージの攻略法が詳しく書かれています。
最初の地図を見るとわかるのですが、プロムナード1〜6という大きな分類があって、その中に小さないくつものステージがあるのですが、全てのステージを、1ページ1ステージで書いてある。
ので、結構な量です。

IMG_2337.jpg
ここからプロムナード1の解説。
「がけっぴち公園」は②となっていますが、①はその前のページに、自分の家(スタート地点)として載っています。

IMG_2338.jpg
これは、クリーミー坂やミルク公園が載っているので、プロムナード3かな?

IMG_2339.jpg
多分上記より前のページ、プロムナード3の先頭ページですね。

昔は、こんな感じで、架空のゲームの攻略本ばかり書いてました。
持ってないゲームの攻略本もたくさん持ってたし、ゲームが好き、というよりも、攻略本が好きだったんですね。
ゲーム、という形で自分の世界を描きたかったんだと思います。

大分昔の話なので当時どんな気持ちで書いていたかわかりませんが、
そのうち中学生とかになって、『RPGツクール』などゲームを制作するソフトが使えるようになってからは、
こういうものを、実際にゲーム化していったように思います。

ゲームをやるより、作る方が好きでした。
それを弟とかにやらせていました(弟しかやってくれる人がいなかったんですね)。

実家に帰るとこんな架空攻略本が何冊もあります。
また帰ったら、撮ってこようと思います。
ウケが良ければ(悪くても)また載せます。
全ページはさすがに載せられないのでこんな感じのハイライトになるでしょうけど。

いやあ、昔は良かった。

もっと知りたい!作曲家のブログ


好きな交響曲ランキング(作曲家制限無し)

前に、好きな交響曲を、1作曲家1曲制限でやったが、その制限無しでやってみようかと思う。


第 1位:ベートーヴェン 第九
第 2位:マーラー 第9番
第 3位:ヴォーン・ウィリアムズ 田園交響曲
第 4位:マーラー 第1番
第 5位:シベリウス 第5番
第 6位:マーラー 第6番
第 7位:ベートーヴェン 第7番
第 8位:マーラー 第5番
第 9位:ベートーヴェン 第6番「田園」
第10位:ショスタコーヴィチ 第5番
第11位:マーラー 第3番
第12位:マーラー 第7番
第13位:ベートーヴェン 第5番
第14位:マーラー 第10番
第15位:チャイコフスキー 第6番
第16位:シベリウス 第7番
第17位:ヴォーン・ウィリアムズ ロンドン交響曲
第18位:シベリウス 第6番
第19位:ハンス・ロット 第1番
第20位:ブラームス 交響曲第4番

先の“作曲家制限あり”の方と矛盾する結果のところもあるけど、やはり甲乙付け難いので、そのときの気分にもよると。

しかし、20個出した割に、作曲家8人に絞られてしまいました。
まあ、個人の好みなので偏りますわな。

ベートーヴェン、マーラー、シベリウス、ヴォーン・ウィリアムズは自分にとって特別な4人ですね。
あと一人いたら、ちょうど良いんだけど・・・
四天王にしましょう。

もっと知りたい!作曲家のブログ


ラストシンフォニー考 ―各作曲家の交響曲のベクトル

交響曲ファンにとって、シンフォニーとは、その作曲家そのものである。

とある偉人がこう言っていた。

「すぐれた画家や彫刻家は 自分の『魂』を目に見える形にできるという所だな。
まるで時空を越えた「スタンド」だ・・・」 ー ディオ・ブランドー

dio
ディオ・ブランドー(1867 - )

これはもちろん作曲家にも言えることで、作品は魂の具現化だ(ジョジョの世界ではそれを“スタンド”と呼ぶ)。

そして、作曲家がそのときそのときの自分の出せる力を遺憾なく発揮する、自分のすべてをつぎ込む作品、それこそ“交響曲”というジャンルなのである。

その“交響曲”を順に追って行くと、その作曲家のそのときの魂そのものを体験できる。
まさに、交響曲を聴いて行くことは、その作曲家の人生を追体験することに他ならないのだ。

そして、ラスト・シンフォニーというのは、その行き着いた先にある。
その人の“交響曲”というのは、ラストシンフォニーに向けて、紆余曲折しながら進んでいく。

これから具体的な作曲家の例を見て行こう。

ベートーヴェンは、常に革新を求めていただろう。ピアノソナタや弦楽四重奏曲などで実験しつつ、その成果を交響曲にまとめて来た。
ラストシンフォニーは言わずもがな《第九》。
まさに詩と絶対音楽の融合であり、新たな時代(ロマン派)の幕開けとなった。
彼の交響曲のベクトルとは、常に新しい時代を向いていた。

ブラームスは、ベートーヴェンの壁を越えるべく20年かけて交響曲第1番を発掘した。
それからは呪縛を逃れたように第2〜4番を作った。
ラストシンフォニーの第4番に現れたものとは、アカデミズムの究極の形とロマン性の融合か。
ベートーヴェンの影に怯えながら、アポロン的な絶対音楽の形式美と、自分の中から湧き出る歌謡性を折衷させた。

ブルックナーは、ひたすら同じ曲を作り続けた。
なぜか。それは人間が聴くためのものではなく、神に捧げるものだったからではないだろうか。
彼の中には常に究極の形、イデアが見えていた。
そのイデアに近づこうと、イコンとしてのシンフォニーをひたすら作り続けた。
彼のベクトルは、常に神と確固たるイデアに向かっていた。
ラストシンフォニーである第9番は未完に終わった。
しかしそれは、神の答えである。
第8番を見てみると、第3楽章で究極の緩徐楽章を生み出した。
それは、昇天するかのような世界。
しかし、フィナーレの第4楽章では、天から神々しく、荘厳に降臨する。
恐らく第9は、第3楽章で昇天し、神が「もう降りなくて良い、天に留まれ」とブルックナーをついに受け入れたかのようだ。

チャイコフスキーはどうだったか。
最後のシンフォニーは、史上初めて息絶えるように静かに終わる。
深い沼に入って行くようだ。
これは“人生シンフォニー”といえる。静かな別れのシンフォニー。
死にゆく自分と、これまでの人生を振り返る、個人的なシンフォニーだ。
しかし、自分の死と言うものを客観的に捉え、悲劇的である。
そして、そこにはチャイコフスキーのこれまでの音楽の素晴らしい要素がふんだんに詰まっている。

マーラーは、もっと個人的で主観的だ。
自分が感じたこと、周りの雑多な環境音まで全部自分の世界に取り入れてしまった。
彼にとって交響曲は“世界”そのものだった。
そしてもう一つのベクトルは“死”という観念。
ラストシンフォニー、第9番では、“死”は単なる象徴ではなくなった。
客観的な“死”が、今まさに自分が体験しようとしている主観的な“死”そのものになった。
死神ハインと踊る、なんて悠長なことは言えなくなったわけだ。
そして、最後は、この世にすがりつくように、息も絶え絶え、なかなか終わらない。
ベクトルは客観性→主観性だろう。

シベリウスは、マーラーとは対極だ。
マーラーがすべてを取り込もうと雑多になっていたのとは真逆で、シベリウスは“純化”させ、いろいろな要素を“同化”させようとしてきた。
第2番は第3楽章と第4楽章が、ベートーヴェンの運命のようにアタッカで演奏される。
第3番になると、ついに第3楽章と第4楽章はくっついてしまって、一つの楽章となる。
第5番もしかり、第1楽章のソナタ楽章と第2楽章の予定だったスケルツォは統合され、一つの楽章になる。
そして第7番はついに、交響曲のあらゆる楽章の要素がが全て一つの楽章にまとまる。
単一楽章となり、演奏時間も20分と、究極に“純化”され“同化”された。

ヴォーン・ウィリアムズは、イギリスの風景を描写するような音楽家だ。
第3番にあたる《田園交響曲》なんかはその極みだ。
しかし、徐々に内面にある何かわからない“黒い”ものがしみ出して来たようだ。
そして、最後の第9番は、その煮え切らない何かがスタンドとなって現れた(またジョジョに絡める)。
こちらの誰かのブログで、この曲を「黒くて重い何かがうごいていく。」と表現していた。
見事な表現だと思って、感服した。
ラストシンフォニーが“黒い”とは、何かゴヤの最後に辿り着いた“黒い絵”を思い出す。
美しい風景を描いていたと思ったら、知らないうちに黒い何かを描いていたのかもしれない。

ショスタコーヴィチ。
彼のラストシンフォニーの最後は、ベートーヴェンのように壮大でも、チャイコフスキーやマーラーのようにこの世への静かな別れでもない。
病院の点滴の音だ。
なんて現代的で、冷たく無常な“死”だろう。
彼にとって、交響曲は、自分の創造力と共産党の圧力の折衷だった。
そんな中で彼は、より“現実的”な世界へと向かっていってたのだろう。
形而上学的な世界は19世紀で終わったんだよ!と言わんばかりだ。

さて、最後に、
最近聴いたマルコム・アーノルドの交響曲について書きたい。
彼の交響曲は、第5番が圧倒的に良い出来だが、基本的に中身が無い。
非常に軽妙で、オーケストレーションの派手さだけでやっていってる。
まるで、口の上手さだけで上り詰めたチャラいハリボテ男のような曲。
そういうのが悪い、と言ってるのではない。何も考えず、その瞬間は楽しめるし、その後何も残らないので、このあと何か重要な仕事がある人とかは良いかも知れない。
You tuberのシバター風に言えば「この後セックスするカップルには丁度いい」かもしれない。
しかし、1番から9番まで聴き進めたところで、すごい世界が待っていた。
そう、彼のラストシンフォニー、交響曲第9番。
そこには、これまでの内容の無いハリボテ交響曲とは違い、確実に何かがあった。
それは“内容が無い”という内容だ。
“内容が何も無い”という、すごい内容がそこには存在したのだ!!

言い換えるなら、それは“虚無感”と言えるだろうか。
第1楽章から、どうでも良いようなクソメロディと、それに似合わない妙な壮大さ。
第2楽章は非常に虚無のかたまりで、ひたすら同じ繰り返し。
そして第3楽章は、ひたすら明るい、もうギャロップみたいに明るいんだけど、この楽章がもっとも“虚無感”を与える。
オーケストレーションの異様な薄さ、それなのに、必死で盛り上げようとしているメロディ。
そう、“空元気”だ。
それも痛々しいほどの。
第4楽章は、それだけで20分もある曲だが、ひたすらうつろな世界が続く。基本2声部しかない。
オーケストラなのに、ずーっと2声部で20分以上、盛り上がりもしない。
しかも、これまでの交響曲が30分程度なのに、この交響曲は50分近くある。
死ぬほどの退屈な時間と、虚無感に襲われた。
しかしそれは、新鮮な体験だった。

これを聴いた後、今までの彼の交響曲を聴いてみたら、なんということだろう!!
少し面白く聞こえてくるではないか!!

今まで奥さんに、見かけだけ綺麗なまずいご飯を出されていた主人が、嫌気がさしていたところ、
ある日、見かけもまずそうで、究極に何の味もしないティッシュペーパーみたいなご飯を出された。
ついにそこまで行ったか、とある種の関心をしていたら、
次の日これまでのご飯が出て来て、あら、なんかちょっとティッシュに比べたら味がある!的な。

これは僕はとてもすごい体験をした。
アーノルド、恐るべし、だ。

どうもこの第9番、委嘱で書いていたものの、スランプに陥っていて、全然かけなくて、締め切りにも間に合わなくて、でも周りの人の献身的な支えでなんとか書き上げたもののようだ。
曲に見事にその想いが反映されてるのだからすごい。
「嫌々書きました〜〜!!」って。
でも、これまでの交響曲より長大!!

面白い作曲家だ。

もっと知りたい!作曲家のブログ


ヴォーン・ウィリアムズとバルトーク

ヴォーン・ウィリアムズが、僕のツボにどストライクだったらしく、ここ最近は彼のことが忘れられない日々だ。
これほどにハマった作曲家というのはこれまでにベートーヴェンとマーラーくらいのものだろうか。

そして、基本的に僕はドイツ・オーストリアものが好きなんだと思っていたが、ここにきてイギリスものというのにハマりつつある。

イギリス曲集

先日も、このヴォーン・ウィリアムズとディーリアスとウォルトンが入ったCDを買った。
それに、今マルコム・アーノルドの全集をたのんでいる(あまり期待していないが)。

イギリスなんて今まで特に意識してなかったと思っていたが、よく考えればロックではイギリスものにかなりはまり込んだ歴史があった。

マイク・オールドフィールドとエニドで、特に前者は曲にアイリッシュなものを多く取り入れていて、ヴォーン・ウィリアムズと通じるものがある。


そういえば、ヴォーン・ウィリアムズの《交響曲第4番》の第3楽章の途中を聴いていて、何やら既視感?既聴感?の用なものを感じた。
金管がフーガっぽくなる部分だが、これはどこで聴いたことあるんだろう、と結構考えた。
3日くらい考えて、やっと思い出した。
バルトークの《管弦楽のための協奏曲》の第1楽章だ!

年代からいって、《交響曲第4番》の方が10年ほど古いので、影響を受けたとするとバルトークの方が真似したんだろう、と思った。

そこで、もう一度《管弦楽のための協奏曲》を最初から最後まで聞き直してみてわかったことがある。
多分、その頃のバルトークは、ヴォーンウィリアムズに影響を受けていたのではないか、と。

そう思われる部分は他にもあった。
第4楽章〈中断された間奏曲〉の中で、第2テーマがグリーンスリーヴスっぽい。
しかも、ヴォーンウィリアムズの《グリーンスリーヴス幻想曲》のオーケストレーションそのままっぽい。
僕がこの《管弦楽のための協奏曲》を最初に聴いたときからそれは感じていた。なんかイギリス民謡っぽいな、と。

思えば、ヴォーンウィリアムズもバルトークも、自分たちの国の民謡を採取して、それを自作に取り込んでいた。
彼らが直接知り合いだったかどうかはわからないが、何か通じるものはあったんじゃないかと思う。


日本音楽コンクール・作曲部門の審査方法大改革についてー毎日新聞社の黒い癒着

mainichi-sakkyoku

日本音コン作曲部門から「演奏審査」をなくすという。
昨日この記事が出て、現代作曲家、またその演奏者の間で大炎上した。
この「大改革」によって損なわれるものは多すぎるし、賞を目指す若手作曲家にとってのメリットは全く無い。
問題点は、僕が思うところで3つある。

1.音楽=“譜面”なのか?
2.審査のさらなる密室化
3.3万5千円という審査料の割に合わない


1.音楽=“譜面”なのか?

①「純粋な譜面審査」??
記事のタイトルに「純粋な譜面審査に」とある。
いかにも言葉を選んで、聞こえを良くしたような言い回し。
果たして「譜面審査」は「純粋」なのか?
音楽と言うのは「譜面」じゃない、“音”による芸術だ。
これじゃあただのお絵描き大会(譜づらのいい人が合格する)になってしまう。
ベートーヴェンは汚い譜面から美しい音楽を紡ぎ出した。音楽のコンクールは決して“譜面重視”で行われるべきではない。

②審査員の読譜能力
そして、審査員全員が、果たして楽譜から新鮮な“音”を的確に読み取れるほどの読譜力を持っているのか?
譜面審査と演奏審査で順位が大きく変わる、という事例はよくあることだ。
となると、譜面から全ての音を想像するのはいかにプロの審査員といえども難しいということではないのか?
そもそも、新しい音を目指す作曲家たちの譜面。その誰も今まで聴いたことの無い音を、譜面から鮮明に読み取れる人ってどれくらいいるんだろう?

③演奏の善し悪し?
「これまで、ある応募作品に譜面審査で低い評価をした審査員が、当該曲が本選で演奏された際の審査では高い点数を付け(その逆もある)、評価点数に予選と本選で極端な違いの生じることがあった。それは、演奏という行為が加わることによる変化である。」
この記事の著者はそう書いている。演奏の善し悪しによって左右されるというのである。
なるほど一理はある。
しかし、作曲をする側は、その曲を“机上の空論”で書いてはいけないわけで、そこには常に“演奏者を想う”心が含まれている。
極端な話、この「大改革」は、実際に演奏できないような曲がどんどん上位に行ってしまう可能性がある。
演奏者不在の音楽、音に出来ない音楽、の肯定である。


2.審査のさらなる密室化
①音楽業界の“政治”
音楽業界、特に“コンクール”は多くの“政治”が渦巻く。
コンクールの審査員が発表されると、一部の候補者はいち早く“お参り”をする。
審査員に楽譜をみせにいき、良い点をつけてもらうよう画策するのである。
そして一部の審査員は学閥を考えたり、自分の弟子をあからさまに贔屓する。
これはもはや音楽業界では常識。
これまで、公開演奏審査にすることによって、少しでもその不公平を和らげることが出来た。
演奏審査が無くなり、審査が一般の人の耳に届かなくなったこの「大改革」は、そういう一部の悪い審査員たちには非常に都合が良い。
そして、それを唱えた犯人は一体誰だろうか??

②この記事を書いた人物=黒幕の正体
その答えの一つが、この記事を書いた人物にある。
“梅津時比古”である。
彼は以前に、宮沢賢治の音世界の記事で取り上げた人物であるが、この人、今はとある私立大学の学長だ。
とある私立大学といえば、コンクールの主催者である毎日新聞社との癒着が近年あからさまだ。
その大学理事長に毎日新聞社の重役を迎え、学内で日本音コン審査員を呼んだコンクールなども行っている。
こうした事実が、やたら審査員にその大学の先生を起用したり、やたらその大学の出身者や学生が通るようになった裏にはある。
これが“毎日新聞社”という偏向報道に徹した悪い新聞ととある私立大学との黒い癒着である。
記事の著者が梅津氏だということは、ついさっき気付いたが、全ての合点がいった。

もちろん、以上の私立大学の学生全て、贔屓によって通ったわけではないと思う。
しかし、まああからさまにそんなことやってたら、そう思われても仕方ないよねって話。
本当に能力がある学生たちのためにも、そういう黒い癒着は断ち切ってほしい。


3.3万5千円という審査料の割に合わない
コンクールを受けるのに、若手作曲家は3万5千円という大金を支払う。
そのお金は、なけなしのお金で必死に夢を追っている若者には痛いお金。
しかし受かれば、プロのオーケストラが演奏してくれる、という期待を背負って、今まで払っていただろう。
他の部門は依然公開演奏審査があるが、3万5千円払って、演奏もされないってなんやねん。
審査料3万5千円だけじゃない。
応募要項は800円で買わされ、譜面を返してもらうには着払いである。
このコンクールの運営には、毎日偏向新聞だけでなく、われわれから受信料をむしり取って社員が遊びほうける、あのNHKがいる。
なぜそんなにお金を取られるのか??

ちなみに、他のコンクールの審査料を見てみよう。
芥川作曲賞は無料、武満作曲賞も無料、朝日作曲賞(吹奏楽)5000円。
もちろん全て演奏審査ありだ。譜面も向こう持ちで郵送してくれるし、応募要項を買わされることも無い。

夢のある若者の敵ではないか。
毎日新聞社は新聞には聞こえの良いことを書いて、若者を苦しめる一番の原因である。


以上3つの問題点を並べたが、どうやら「大改革」の一番の理由は「採算が取れないから」らしい。
なら記事でそう書けば良かったじゃないか。なぜ無理矢理正当化するような違和感のある文章を梅津氏を使って書かせたのか・・・。

本日は少しディープな内容だが、コンクールの闇について書きました。

プロフィール

ボリス

Author:ボリス
血液型:O型
趣味:音楽鑑賞、読書、ツーリング、心霊スポットめぐり
好きな音楽:ベートーヴェン、マーラー、シベリウス、ヴォーン・ウィリアムズ、谷山浩子、マイク・オールドフィールド など


一応作曲家です。
まだまだ先は長いですね。まるで樹海を彷徨っているようです。
ようこそ、僕の森へ。

カレンダー

03 | 2018/04 | 05
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 - - - - -

アクセス数

検索フォーム

ブログランキング

ブログランキング・にほんブログ村へ

人気ブログランキングへ

樹海へ

上の各種バナーをクリックしてね!

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR